昭和41年07月15日  朝の御理解



 私共が信心を頂いておる。その信心を頂いておる値打ちというものはお互いどこにおいてあるだろうか。皆さんはどこに置いておられるでしょうか。信心を頂いておる値打ちはどこにあるか。又自分はどこを何をもって値打ちとしておるだろうか。今日私はぎりぎり自分の頂いておる信心の値打ちというものを、どこに自分が置いてあるか、考えてみたい、それをまた追求してみたいと思います。
 真あれば徳ありと昔から申しますように、信心をしておれば確かに信心を頂いておるという事がです有り難いです。信心の値打ちは本当ここだと思う様な事が一言二言ではございません。だからどれが嘘でどれが、本当と言う事でもないでしょうけれども、私はこれだけは信心を頂いておる値打ちというものを、いよいよ確実な本当のものにしていかなければならないと思いますね。皆さんはそれをどこに置いておられる。毎日こうやって椛目参りをなさっておられるいわゆる椛目参りの値打ちはどこにある。
 その人の信心が、立派であると言う事はどこに、何をもって立派であるとするか。お道の信心のことが非常に詳しくなって、お話でもできる。御用ができる、そういうなことでもやはり値打ちであろうけれども、そういう値打ちは枝葉だと思う。それはその御理解の中にですね、その一心を出せば、勿論その前にあるのです、ね、例えばあの家を立てるのに大工が何人、棟梁が何人もおってははかどらん。物事相談に暮れてはかどらんと。此の方一心と。芯というたら一つと棟梁というたら一人。
 何人も棟梁がおっておってできん。仕事の中では、芯というのは一つだとそういうその御理解の後に最後にそのその一心を出せば、すぐにおかげになると仰る。私は信心とはそのすぐにおかげが受けられる、教祖の神様があの、嘘をおっしゃっておられるとは思いません。ね、少しオーバーに言うておられるとは思われません。ね。だからすぐにおかげが受けられないという所にです、自分の一心というものが、まだほんなもんじゃないと言う事を一つ思うてみなければなりません。
 もう私は金光様一心です。しかも椛目一心です。もう本当に親先生一心ですと例えば言うておる人でもです、ね、すぐにおかげが受けられると仰る、そのすぐにというおかげの受けらないならまあまだ一心の追求が足りんのです。しかもその一心というのがです、どういうところから出てくる一心でなからなければならないかと。そこが私はポイントであると。値打ちはそこから。私は信心の値打ちというのは、いわばその時その問題、そのいうなら難儀いわば今日的一つの難儀に直面した場合。
 それを私がどれほど、真ん丸い和らいだ喜んだところそれに対決しておるかという言が値打ち。自分がもし三角の心でね、四角の心でそれこそ角ばっかりの心でその問題にもし対決しようとするならば、あなた値打ちはもうゼロなんだ。信心を頂いておるうちはなるほど過去においては、こんなおかげも頂きました。毎日朝参りもしておりますというてもです、本当の意味においての信心の値打ちというものはゼロです。信心はどこにおいとるか。何事にも信心になれよとこう仰る。
 何事にも信心になれよと。ね、私共がいわゆる今日的な問題にです、もう時々刻々にしてです、起きてくるところの様々な問題がある。生きている以上生きていく為にまた、それは当然必要な事である。それから逃れる事はできない。それに対決しておる自分の態度なんだ。それを自分がどれほど和らぎよろこぶ心をもって、向かっており対決をしておるかという事がです、ね、そしてなるほどそれは大変な問題なのだ。大変ないわば困ったことなんだ。
 けれども問題が大きければ大きいだけ、難儀を感じれば感じる程です、その問題に自分の信心心をもって、和らぎよろこぶ心をもって、自分が対決しておるという事が値打ちなんだ。ね、ですから今日という今日は、一つ皆さんはそこんところをです、もうその様々な人間関係がございます。さまざまな突発的な問題もありますけれども、ね、それを場合によってはどっこいといわば、本当にこうやってしなければ受けられないような、問題もございましょう。
 どっこいとそれを受け止めるこころがです、なにくそやるぞというのもいいでしょう。只々です、私共がこれを信心でいかに受けるかと、今の私はこれを有難いと合掌してうける心はないけれども、これをこの中から信心を頂こうと、この中からお育てを頂こうと、これによって分からせて頂こうと、まずそういう心というものが出なければ、次の和らぎよろこぶ心、それは初めから和らぎ喜ぶ心で受ければです、昨日ある人が椛目の問題でまあいうならば、えらい難儀な問題をいろいろ聴かせてもらった。
 けれども、私はその時ですね、おかげだなと思うたです、自分で。いかにもそれは障害のようにある。それはちょっとどかしたいごとある。ちょっと考えると、けれどもその障害こそがです、調子に乗らんですむ、いわば(?)ですむ、いやそこに引っかかるほうがかえっておかげであることを直感した。私はその問題をそれは困った事だどうした事じゃろうかと、言わずにです、それはおかげばのどげんかんがえたっちゃ。それはおかげよと、言えれるという心。ね。
 喜びで此の方の道は喜びで開けた道だから、喜びで苦労はさせぬと仰る。ね。その事で本当に喜ばせて頂くということ。ねそのことをそく喜びで受けられるという事。ね。今日はですね、私共がすぐに、おかげが受けられると仰るこれだけ一心になっておるのに受けられんというならです、教祖の神様が、嘘を仰る筈がないから、教祖の神様がおっしゃる事が本当とまず、頂いて自分の一心の欠如しておること、ね、また例えていうなら病気を致しましょうか、ね。
 この人はみて貰わんでよかろうかと、これはおくそうならんでよかろ、もうすでに自身がないです。ね例えていうなら、それをお医者さんの薬もやっぱ神様の恵みのものじゃから、なるほどそれも嘘じゃないです。けれどもこれではねすぐにおかげが受けられるというおかげにはなってこんです。お金が足りないどこから借りようかと、まず借りるところだけ考えて居る様な事ではまず一心じゃないです。ね。
 その一心の追求というのは、私がここで(?)だからその一心を、私共がその一心を出せばすぐに、おかげがあると仰る、一心をださせて頂きたい。一心の追求をしたい。しかもその一心ので所がです、様々な問題に直面した時に、自分の信心を頂いておるけれども、この程度の値打ちしかない。椛目に参りゃやっぱおかげを頂くですもんねと、右か左か分からん時には親先生にお伺いすれば、すぐに腹は決まるけん、もうこれだけでも有難くなる。なるほど有難い。それも値打ちには違いはない。
 けれども本当の、これは私が感じるところの現在私が信心を頂いておるものの値打ちというものはです、どのような場合でもその問題にです、しかもその今日的な問題にです、目の前の問題にです、いかに私が和らぎ喜ぶ心で、それを受けておるかまた対決しておるかという、対決しておれれるかということが値打ちであると言う事。というと皆さん、大体すぐ分かるですね。はぁ自分の信心の値打ちというものが、ね、折角なら値打ちのある信心をさせてもらわなければならない。ね。
 昨日一昨日、昨日が13日が御霊様のお祭りでしたから12日、御用がございましたからいろいろ御用がありますから、福岡の高橋さんと、土居の久富さんが昼から御用をしてくださった。おかげで大変スムーズにお祭りの準備ができた。皆さん帰られたのが、もう夜の十二時。ところがあの、そこには有名な豚がおるのですね。大きなその、300斤ぐらいある大きな。それがその、もういよいよあの赤ん坊が生まれるわけ、豚の赤ん坊が。ちょうどその日だった。
 私が明日あの都合が出来るなら出て来て下さい。明日・・?の御用があるからしかし無理せんでもいいですよ。出来たら来て下さい。したらあくる日昼頃から見えました。ま、都合がなかったのかと思った。都合があってもどうぞ万事お繰り合わせ頂くように。私知らなかった。したらあくる日参ってきてから、言われることですよね。いつもあの豚が出産するときには、長男の国男さんが取り上げばあさんの、この人は非常に器用なですね、もう一匹一匹そのへその緒を切ってやって袋から出されるそうですね。
 いっちょいっちょ掃除をしてやってそして、そのするんです。ところがここから御用を頂かれて帰られたところがですね、豚がその生まれておった。10匹生まれておった。もうしかも綺麗にその豚が自分一人で、なんもかもしてから10匹の子供達に乳を飲ませておった。いつもその大きなその豚ですから、生ます時にですね、その下敷きにしたりあしに乗ったり、手を挙げたりしてですね、まぁ押し殺してしまうような事があるそのです、食べてしまう事もあるそうです苦しまぎれに。
 けれどもその10匹がこんなにあげて、まぁその子豚にその怪我させんようにですね、もう、300斤もある豚が寝たから、もうこうやってから乳を飲ませよるのを見てから、本当に有難く感じたとこういう。その本当に神の用をたせば、氏子の用は神が足してやると仰るが本当にそうだと。ね。こういう風にですはっきり、例えば御用をさせて頂いたら、帰ったらやっぱり神様が自分の用をしておって下さったと、はっきり出て参りましたらね、皆んながその有難いと思うのですけれど、ね。
 信心をしておってね、分らなければならない事は目に見えるおかげより目に見えぬおかげのほうが多いと仰る。ね。信心をしておって目に見えるおかげより目に見えないおかげのほうが大きいと仰るのですから、ね、その大きい法に実をいうたらお礼を申し上げねばならないのでしょうが。所がその氷山の一角ちょこっとばっかり出ておる所の、いわば今ご承知のように国男さんが病院に入院しております。
 だからあの人がおられんなら、昨日勇さんが見えられてから、もう家のばっかりは不器用ですけ、何もしきらんとですよち、しきらんけんそれはしらんとですよち言うてから、けれどもその、しきらんでもですたい、やっぱその豚が一人でその、処置をしてから10匹の子供に乳を飲ませよったと、言う事その事は事実なんですからね。国男さんを病院に呼びに行く訳にはいかん。
 はぁしてみると、国男さんの病院の入院もいわば、一日の御用も神様のご都合であったという事。分からないけれども、まだ言わば一角によってでておるところのおかげの根の方がまだ、大きいという事が分かるでしょう。しかも結果は人間がへそを切ってやったり、処置してやったりよりも、かっておかげを頂いておると言う事。もう自然にそれこそ、一匹の子豚も殺すまいとしていわば、おかげを頂いておると言う事。しかもそのもうその、一生懸命その用心をしておるわけですね。
 もう足をこう足の下の豚はぶっちゃげちゃるですよ。ね。それを殺さまいとしてからもう、足を上げてからその乳を飲ませておるところから、本当に物が集まる様に有難いと思うたこういう。成程自然の成り行きに任せてです、天地の親神様のお働きにお任せしきっておかげを頂く、というのがです、自分が一生懸命神様の御用をさせて頂いておってのそれであるところに生きてくるのですよね。
 神様にお任せしておれば別と、自分がなら遊びにでも行っておるのならば、私はこのような事にはならない。私は神の用をたせば氏子の用は神が足してやると仰る。しかも神様が、皆さんが一生懸命御用を頂かれるその御用がです、ね、信心しておれば目に見えるおかげより目に見えないおかげが多いと仰るその、大きい方のおかげに私共が、目をつむっておる。分かろうとしない。例え一つのおかげでもです、五つ頂いたような思いで信心をさせてもらえば次の五つのおかげだとこう仰る。
 五つのおかげを頂いても10頂いたように喜べばもう次の喜び、おかげと仰る。本当をいうたら私共が感じておる一つと言う事は、五つともいわんかもしれんのです。いわんですまた。けれども私共が分からんだけだから、少しオーバーであるようだけれども、本当に一つというたら、10も15も頂いたような表現をもって、喜ばせて頂くならばですね、それがやはり、おかげに成らん筈はないと思うですね。
 ほんとうに喜びてにならなければいかんです。ね、そういう稽古を常日頃一生懸命致しておりませんとです、いわばその目に見えない所のおかげの場合はです、それがひょっとすると、痛い事やら腹のたつ事やらでもあるかもしれないのですけれども、それが凡人であるから分かりません。ですからそん時にそれは困ったの、それはどういう事じゃろうかと言う様な事にしまわなければならない。目に見えないのです。そこは。こういうおかげである事が分からんのです。
 目に見えるようになればなるほど、その豚が一人で子を産んでから自分で処置をしておったという事だけを見れば、分かるのだけれどもです、なら国男さんが入院したその、おかげの事が分からん。ただ命が助かったという事だけの意味での、おかげではあるばってん、ただそげな事じゃないて。神様のおかげというものは。ね。現れておるのはほんの氷山の一角であって、信心をしておればそういう目に見えるおかげより目に見えないおかげの方が多いと仰るようなおかげの方に。
 私共が分らんでも、だから喜びをもってそれを受けていく事が本当だ。本当なんだから、私共はその喜びの心をもって、どのような問題にでもです、直面させて頂く。それに対決をさせて頂くと言う事が、本当なんだけれども、信心をさせて頂いておるものの値打ちがないものだから、それを腹立ちやら、いよいよ問題が問題をうんで行く様な、いよいよ難儀が難儀を生んで行く様な受け方しか出来んと言う様な、値打ちがないじゃないか。問題に成らない様な事を問題にしていく。
 もうそれはありがたい事じゃんのと言わんならん事を問題にしておる。これでは値打ちはない。ね。私共がおかげを頂きましてからです、考えてみなさいおかげばいと。もう考えてみれば考えてみるほどそれは、神のご都合に違いなかばい。とこれが例えばその、人の場合でもそれに言うてあげれるだけの信心。勿論自分もそれを実感させて頂けれる信心。信心の値打ちとは、その今日的一つの問題、問題にですいかに自分が真ん丸い和らいだ心を持って、それに対決しておるか受けておるかと言う所に値打ちがある。
 その一心を出せばすぐにおかげが受けられると仰るけれど、ね、おかげが受けらんといわずにです、また、自分の一心というものが、本当のものではないという事。ね、本当の一心という時にはです、暑いも感じなければ、寒いも感じんです。ほんに私は椛目一心というとっちゃった、お参りがまだ、出来なかったり、お参りが難儀に感じるくらいなことではです、まだ一心じゃないです。
 まだ眠かを感じるくらいことじゃったら一心じゃないです。ですから一心の追求というたら、限りがないのですけれどもです、そういう風にして私は自分の一心をどの程度の一心をもって、椛目に心を向けておるかという事と同時に、自分の信心の値打ちというものは、この程度であると、これはもっと本気で値打ちのある、信心をさせて貰わなければなんと言う風にです、先ず開眼してです、そこんところをいよいよ値打ちのある信心をさせて頂かなければならんと思うですね。
   どうぞ。